大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和31年(う)2283号 判決

控訴人 被告人 糖田春雄

弁護人 島谷六郎

検察官 磯山利雄

主文

本件控訴を棄却する。

未決勾留日数中当審の分六〇日を本刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、被告人及び弁護人各提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれを引用し、これに対して次のとおり判決する。

被告人控訴趣意について、

然し乍ら、本件記録を精査し、原判決を仔細に検討勘案するも、原判示事実は、原判決挙示の証拠により優にこれを証明することができ、所論に鑑み且つ当審における事実取調の結果に徴するも、原判決にはいささかも事実誤認の違法は存しない。

所論によれば、原判決挙示の証拠中佐藤正夫の司法警察員に対する供述調書及び同人の窃盗未遂被害届は孰れも住所氏名を詐称したものであつて証拠価値がない旨主張する。なる程所論指摘の各書面が孰れも氏名の点は兎に角として住所を詐称したものであることは本件記録上明かであるけれども、当該証拠の価値判断は当該事実承審官の自由なる心証により決ずべきところ、原審公判調書中証人田丸良太郎同佐瀬四郎の各供述記載及び当審証人右両名の供述並に前記各書面作成の経緯及びその内容を検討綜合すれば、所論指摘の各書面が証拠価値を有しないとする理由は更になく、此の点の主張は到底採用し難い。論旨は総べてその理由がない。

弁護人控訴趣意第一、について、

所論は要するに、原判決挙示の証拠中自称佐藤正夫の司法警察員に対する供述調書及び同人の窃盗未遂被害届は、これを証拠となし得ないものであるのに証拠に供したのは違法であると論断し、その理由として、該書面が供述者の氏名住所を詐称したものであつて、かかる書面は刑事訴訟法第三二一条第一項第三号に規定する「所在不明」「その供述が特に信用すべき情況の下にされたものであるとき」「供述者の署名若しくは押印」の要件を欠如するものであつて同条項所定の書面に該当しない旨主張するのである。

仍つて記録を精査するに、所論指摘の各書面に記載された供述者たる佐藤正夫の住所が、真実に反するものであつて、該住所に佐藤正夫なる者が居住していないだけでなく、そこに居住を定めた形跡すらないことは洵に所論のとおりであつて、供述者たる佐藤正夫なる者が司法警察員に住所を詐称したものであることは極めて明かであるが、佐藤正夫なる氏名そのもの迄も詐称したものであるかないかは記録上明かではない。然し乍ら、仮にこれを詐称したものとして考えても、抑々刑事訴訟法第三二一条第一項第三号に所謂「所在不明」とは該供述調書の証拠調をなす段階において当該供述人の所在が判明しない総べての場合を謂い、その判明しない理由の如何はこれを問わないのであつて、本件の場合における如く供述者が当該供述書作成当時虚偽の住所氏名を告げた為めにその者の所在が判明しない場合をも当然包含するものと解すべきを相当とし、又同条項本文に所謂「署名若しくは押印」とはその供述者自体の署名若しくは押印であつて仮に氏名を詐称する場合においてもその詐称本人の自筆にかかる記名若しくは押印である以上これを以つて署名若しくは押印ありとなすに毫も支障なきものと解すべく、更に又同条項第三号に所謂「その供述が特に信用すべき情況の下にされたものである」か否かは、当該裁判官の自由なる心証により決すべきところ、原審公判調書中原審証人田丸良太郎同佐瀬四郎の各供述記載及び該書面作成の経緯内容等を綜合検討すれば、該書面における供述が特に信用すべき情況の下にされたものであることは容易に窺知され得るところであるから、原判決がこれ等の書面を証拠に供したのは固よりそのところであつて、いささかも違法の廉はなくこれに反する所論は独自の見解であつて当然採用し難く、論旨は総べてその理由がない。

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 工藤慎吉 判事 草間英一 判事 渡辺好人)

島谷弁護人の控訴趣意

第一原審訴訟手続には重大な法令の違反があり、その違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである。

(一) 原判決は事実の認定にあたり「自称佐藤正夫」の司法警察員に対する供述調書及び同人の窃盗未遂被害届を証拠としたが、これは証拠となし得ないものを証拠として事実認定したものであつて、違法である。

(二) 右の二つの書面は原審において被告人が証拠とすることに同意しなかつたものである。従つて、刑事訴訟法第三二六条によつて証拠とすることはできなかつた。然るにこれが証拠として採用せられたのは、同法第三二一条第一項第三号によるものと考えられるが、右の法条によりこれらの書類を証拠とすることは適法ではない。

(三) 記録によれば、佐藤正夫なるものは、供述調書並に被害届に記載の住所には居住していないだけでなく、そこに居住を定めた形跡すらない。(記録編綴の谷中警察署長の捜査報告書及び松戸警察署司法巡査安西謙の「窃盗被害者の所在調査について」と題する書面参照。)従つて、佐藤正夫なるものは司法警察員に対し住所、職業を偽つたことは間違いない事実であり、その氏名すら真否の程が疑われる。

(四) かような場合も、刑事訴訟法第三二一条第一項第三号にいう供述者の「所在不明」の場合に該当するのであろうか。形式的には、供述者の所在不明にあたるかも知れない。しかし、供述者が住所を偽るからば、後にしその所在をつきとめることができなくなるのは、当然のことである。その氏名をも詐称するとなれば、尚更である。かような場合すらも、被告人の反対訊問を経ない供述調書を証拠とすることを、法が認めたものであろうか。到底そのように解することはできない。もし供述者が後に証人として出廷することを嫌がつて住所又は氏名を偽るならば、実に容易にその目的を達することができる。それでは、正しい司法の運営を期することはできない。しかも、他方、被告人には憲法に保障された反対訊問の機会すら与えられることなく、単に供述者が所在不明の故をもつて、その供述書が有罪の証拠とされることとなる。これは甚だしい不合理である。本件のように、供述者が初めから住所を偽つたことが明らかな場合は、ここにいう「所在不明」に包含せしめるベきではないと考える。

(五) 第三二一条第一項第三号には但書があり、「その供述が特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限る」とある。前述のように、供述者は住所を偽つたことが明らかであり、その氏名すら偽つた疑いが濃い。このように供述者は完全に逃げ腰で供述しているのであつて、その供述がたとえ司法警察員に対してなされたものであつても、「特に信用すべき情況の下にされた」ものと考えることはできない。信用すべき情況とは、供述の場所的環境、供述を聴く者の態度及び供述者自身の態度の三者の綜合によつて醸成せられるものであろう。本件の場合、供述者は人の特定に最も重要な住所、氏名を明らかにしていないのであつて、そのような心理的態度は他人の犯罪を指摘する者の態度として信義に反し不誠実極まりない。かかる態度をもつてなされた供述は特に信用すべき情況の下になされたものとは到底いうことができない。それは供述内容に対する信、不信とは別個の問題である。

(六) 第三二一条第一項本文には、供述書又は供述録取書に供述者の署名もしくは押印のあるものは特定の場合に証拠とすることができるとある。この署名もしくは押印は、供述者が自已の真実の氏名を自署し、もしくは自己の真実の氏名の刻された印を押すことをいうものと考える。氏名を偽つたものまでも含まないこと勿論である。ところで本件の場合は、供述者が氏名を偽つた疑いが甚だ濃厚なのである。原審の判決すら「佐藤正夫という男」とか「自称佐藤正夫」という表現を使い、佐藤正夫が本名であることに確信ありとはみえないのである。偽名の可能性が極めて大きい本件の供述調書及び被害届に、本条でいう「供述者の署名若しくは押印」があるといえるであろうか。これはあきらかに否定しなければならない。

(七) 要するに、本件の場合は、供述者の所在不明の場合にあたらないこと、特に信用すべき情況の下にされた供述といえないこと、供述者の署名もしくは押印ある書面にあたらないことの三つの理由により、佐藤正夫なる者の供述調書及び被害届は刑事訴訟法第三二一条第一項第三号によつて証拠とすることはできないのである。

しかも右の二つの書面はその他同法第三二一条乃至第三二八条のいずれにも該当せず、従つて同法第三二〇条によりこれを証拠とすることはできなかつたのである。

然るにこれを証拠として有罪の言渡をした原審の訴訟手続には法令の違反があり、その違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである。

(その他の控訴趣意は省略する。)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例